謎解き・なぜ「風の又三郎」は書かれたのか。
¥250
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私たちが現在読んでいる宮沢賢治の「風の又三郎」、「銀河鉄道の夜」、「ポラーノの広場」の3作品は賢治が大正末に書いた作品を昭和6年に大幅に手を入れる形で書かれたものです。
この3作品は昭和6年の9月頃にほぼ同時期に改稿されていたことがわかっているのですが、賢治がなぜその時期にそれらの作品を改稿したのかはわかっておらず、謎となっています。そのため、この同時期の改稿理由について多くの研究者が推測し、様々な論考を書いてきました。
しかし、実は賢治がその頃にそれら3作品を改稿するに至った理由を明らかにする資料は存在しており、その存在が把握されていないが故に謎とされているのが実態です。
なぜその存在が知られていないのか。
それは、それらの資料が賢治が「グスコーブドリの伝記」などの作品を発表した雑誌『児童文学』に関係するもので、岩手花巻の宮澤家では全く把握していないものだったからです。
そもそも昭和40年代に入るまで賢治が晩年に作品を発表していた雑誌が何だったのかがわかっておらず、判明した後も花巻の宮澤家を中心とする賢治研究では遠く離れた東京のその雑誌に関する資料の収集にまで進むことはありませんでした。現在においてもアカデミックな分野での資料収集、研究は行われていません。
文教書院は昭和8年3月に雑誌『児童文学』を『現代童話名作集』として書籍化した際、その前書きに『児童文学』は「主に大人におくったもの」と明記していますが、そのこともほとんどの賢治研究者は把握していません。
昭和6年8月に宮沢賢治は『児童文学』の編集から「枚数に制限なく自由に書くように」との申し送りをされており、その後、賢治は長編童話3作品の改稿に手をつけています。
主に大人におくるために刊行されていた雑誌ということであれば、その改稿理由は見えてくるのではないでしょうか。
この『謎解き・なぜ「風の又三郎」はなぜ書かれたのか。」は当時の資料により、それを明らかした小冊子になります。
本来は無料で配布しているものですが、郵送料と手数料のみいただく形で販売することとしました。
また、今回購入された方には、あるきみ屋が賢治の草稿原稿の写しを読み、独自に編集した『銀河鉄道の夜』を差し上げます。
なお、発送には少しお時間をいただきます。